嘉年

嘉年・地名の由来と変遷

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嘉年(かね)の地名の由来は、阿武川の源流であることから河の根「河根(かね)」からつけられたというのが有力な説のようです。実際、嘉年の水源地「水出の泉」は平安時代より朝廷の御領として水神様が奉祀されていたということもあり、その歴史はかなり長いものだと思われます。以下に分かる範囲で嘉年の地名の変遷を記述してみました。

 

中世(南北朝~戦国期)は「賀年」

南北朝~戦国期に「賀年郷(かねごう)」という郷名が文和元年(1352年)8月10日付の大井八幡宮御祭礼諸郷鼓頭出仕座配本帳(簡単にいえば座席表ですね)の右座七番に「嘉年郷」という地名があることから少なくともそれ以前から「賀年郷」があったということが伺えます。

その当時、嘉年郷は長門・周防・石見国境の交通・軍事上重要な地域であり、当時は「賀年城」がありました。賀年城では記録に残っているだけで少なくとも3回以上の合戦があり、実際はそれ以上の戦闘があったと考えられます。

 

近世(江戸~明治初期)は「賀年郷から嘉年村へ」

慶長15年(1610年)の検地帳に賀年郷は3,564石余の石高であったことが記されています。一石は大体2.5俵なので8,910俵程度の収量がある郷だったということがわかります。(当時とは面積も労力も違うので比較にはならないかもしれませんが、現在の嘉年地域では24,000俵程度の収量があります。)
嘉永2年(1849年)の検地帳には賀年、「元禄郷帳」には賀年村、「天保郷長」に加年村としてその名を見つけることができます。

明治初期に嘉年上・嘉年下の2か村に分かれるものの、明治22年に嘉年上・嘉年下が合併して嘉年村となります。

 

近代(明治22年~昭和30)の嘉年村

嘉年村となった後、昭和の大合併まではその名を維持します。明治24年の人口は2,163人(男性1,139・女性1024)でした。現在は480人なので4分の1以下に減少しています。

 

昭和の大合併で阿東町、平成の大合併で山口市に

昭和30年に嘉年村は周囲の4村(徳佐・生雲・篠生・地福)と合併し、阿東町となります。(いわゆる昭和の大合併)嘉年の地名は阿東町の大字に継承されます。その後、平成22年に阿東町は山口市に吸収合併され、嘉年は山口市阿東嘉年上・嘉年下となりました。

 

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