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【奇祭】神懸り状態になる須賀社の厄神舞がスゴイ!!その①

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先日、須賀社の記事を書きましたが、今日はその須賀社で行われる厄神舞(やくじんまい)について書きたいと思います。

厄神舞

厄神舞は毎年旧暦10月の子(ね)と牛(うし)の初日の午後8時ごろから行われます。昨年(2013年)は11月6日に行われました。

厄神舞の幟

幟(のぼり)にもネズミとウシの絵が書かれています。吉部野というのは須賀社がある集落のことで、吉部野の集落の方が氏子であり、厄神舞を舞う舞子になります。

厄神舞の舞子は採物(とりもの:神事や神楽において巫女や神楽などが手に取り持つ道具)として右手に鈴、左手に太刀(木刀)を持ちます。頭には「笠の神」といって5色の色紙をつけた烏帽子をかぶり、直衣と袴を身につけます。そして、二人ずつ五調子の笛と太鼓に合わせて舞を舞います。

厄神舞の舞子

↑ぶれてますが、右手には鈴を持たれています。

ここからが奇祭と呼ばれる所以なのですが、舞が進むにつれ徐々に舞子の人の舞がふらつくようになってきます。これは徐々に神懸り(かみがかり)になっているという徴候です。「ウツリ」と称され「笠の神」を通して神が舞子に乗り移るとされています。

すると受け手(後述します)が「エーマイノー」などと囃したてます。舞子はどんどん神懸り状態になっていき、ついには舞殿から飛び降りて須賀社の拝殿目指して駆け出します。

ちなみに須賀社の位置関係は↓の図の通り。「神懸り」状態になった舞子から舞殿から一直線に鳥居を通って石段を駆け上がるルートを取ります。

須賀社の位置関係

この舞子を拝殿まで行かせないように止めるのが「受け手」の役目です。拝殿まで走ってしまうと「神懸り」から戻らなくなると言われているので、必ず受け手が止めなければなりません。「神懸り」状態になっている状態の舞子は非常に力が強くなっているため、怪我をしないように精一杯の力で止める必要があります。

厄神舞の受け手
↑受け手は「須賀社」の法被を着ます。

受け手が受け止めた後、頭上に御幣(ごへい)を乗せ、拝殿にある控えの間に担ぎ込みます。そうすると「ウツリ」の状態が解けるのです。

ちなみに、だれでも「ウツリ」の状態になるというわけではありません。出ない場合は舞を舞った後、そのまま控えの間に戻ります。また、「ウツリ」の状態になりやすい人となりにくい人がいます。

この一連の流れを12回繰り返して厄神舞は終了します。

 

厄神舞の歴史

厄神舞の歴史は古く、須賀社の始まりに端を発します。須賀社の記事でも書いたのですが、

1033年(平安時代)の夏、酷暑がこの地方を襲い、追い打ちをかけるように原因不明の悪疫が流行しました。非常に苦しい状況になったある日、西の空から光りながら山の頂に何かが降ってくるのを見た村人がいました。

恐る恐る他の村人と相談し山の頂上に行ってみると二振りの小太刀が降ったので、この太刀をご神体とし「素盞鳴尊(スサノオノミコト)」を祭神として社を建立し、神楽舞を奉納したところ悪疫が不思議におさまった。というのがそもそもの由緒です。

ですので、現在は木刀ですが、昔は本物の太刀を持って行われていました。

吉部野の吉村実晃さん(当時63歳)に聞き語りした25年前の書物によると、

天から降ったものという二本の太刀は、昔は村田さんの家に一坪くらいの神の間があって、日頃はそこの床の間にお祀りしてありました。この部屋には女性は入ってはいけんということだったそうですが、今はもう家は絶えてありません。

舞は昔はその真剣をもって舞いよったので、おさえつけるのにムシロをかむせて押さえつけたという話です。走ってこけるように縄を張ったりもしたそうですが、縄は戦時中に人手が少くなった時も張りました。

うちの爺さんの話では、昔は石州舞を舞ってもうつりよったという話です。太刀は二本共焼けておりましたので、二十年位前に研ぎ直しました。

大正時代までは、境内の池の山側に社務所があって、神主さんもおられました。私共が子供の頃には社務所の押入に沢山刀がありよりましたが、どうしたものか今は一本もありません。

という事のようです。昔ははかなりハードだったようですね。おそらく怪我がつきものだったでしょう。実際、木刀の最近でも、骨を折った人がいるという話を聞きました。

舞子について

須賀社の氏子である吉部野の集落の人が舞子になります。舞子にも禁忌というものがあり、それは以下のようなものです。

舞は不浄のものとか、忌みがかりという者が舞うちゃあいけんというがそれは本当で、怪我をしてだんす。昔、まだ稲架が解けんちゅううちに舞う人があって、刀の棒でたたかれて、やっぱり神様が嫌われるんじゃという話でした。

吉部野 吉岡サトコさん(当時83歳)の話より

稲架は(はせ)とか(はぜ)と読みます。昔は稲を刈った後に、稲架にかけて干して乾燥させていたのですが、その事です。つまり稲架が解けん=米の収穫が終わっていないということなので、厄神舞は米の収穫を終えてからでないと舞えない、という事だと思います。行事というのは農作業と密接に関わっているので、そのようなこともあるのでしょう。

ということで厄神舞についてでした。実はまだまだ書きたい事があるのですが、長くなりすぎるので続きは明日にしたいと思います。

※文中の引用は「物語の里 嘉年」(出版)青少年育成嘉年地区民会議 より行いました。

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