山口市

山口線の成り立ち

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SLやまぐち号

山口線の歴史的経緯

SLやまぐち号も走る山口線の敷設は明治43年の第21回鉄道会議にて了承され、第27回帝国議会にて可決されました。

その時は山口~小郡間の敷設だったのですが、翌年の明治44年には山口~益田までの敷設が可決されました。

山口~小郡は大正2年2月20日から営業開始しました。

しかし、仁保~篠目の工事は5つのトンネル(仁保地・木戸山・引越・小河内・田代)があり長い工期が必要でした。中でも田代トンネルは1897メートルの長さで完遂するのに3年余りの年月がかかっています。

そして、山口~篠目が大正6年7月1日に営業開始。篠目から徳佐は順調に工事が進み、篠目~三谷が大正7年4月28日に、三谷~徳佐が大正7年11月3日に営業を開始しました。

ここで小郡から徳佐までの列車の運行が可能になったわけですが、当時徳佐村では「徳佐行きの終列車」という歌が流行したと『徳佐村史』に遺されています。

徳佐駅から津和野・益田に至るまでには白井トンネルを通るのですが、湧き水のため何度も落盤し開通までに5年の月日がかかっています。

そして、大正11年8月5日に徳佐~津和野が開通、津和野~益田が大正12年4月1日に開通し、めでたく山口線全面開通となりました。

山口線開通に尽力した総理大臣

山口県は総理大臣を多く輩出していることで有名ですが、山口線開通には田中義一、寺内正毅の尽力があったと伝えられています。

そのため田代トンネルの篠目側の入口には、田中義一の「造化譲功」という書があり、反対の仁保側には寺内正毅の「柔遠能邇」という書があります。

「造化譲功」とは『万物を想像する造化の神も功を譲る』という事でそれだけこのトンネルを開通させたことが素晴らしいという意味です。

「柔遠能邇」は『遠きを柔らげ、邇き(近き)を能く(良く)する』、つまりこの鉄道が開通すれば遠くの人も近くの人も幸せになるということです。

山口線敷設への反対運動

今では鉄道は積極的な誘致活動が起こりますが、当時はまだ鉄道への理解がなく地主などを始めとした地元の反対があったようです。

当時の農家は米を生産することが唯一の収入源だったので無理もないのですが、「煤が米の生育に影響がある」ということや「牛が驚く」、更には「列車が通ると火事になる」ということが真剣に論じられていました。

そんな経緯もあったのですが、鉄道ができてから地域は発展しは駅を中心に活気を呈するようになりました。

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