嘉年

土居神楽舞の歴史

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前回の更新からかなり期間が空いてしまいました。その間ずっと松本さんの記事が一番上になっているので、何のブログかわからない感じになっていましたが、一応田舎暮らしのブログですので今後ともよろしくお願いします。

最近の嘉年は、米の収穫シーズンの最盛期を迎えています。僕も多少影響はあるのですが、ビバークラボの上村さんが(営農もやるので)米の袋詰で多忙な日々を送ってます。

さて、米の収穫が終わる頃になると収穫祭…というか秋のお祭りシーズンですね。嘉年で一番大きな神社の「森山八幡宮」では10月2日に秋のお祭りをやるのですが、その秋祭りに向けて土居神楽の練習が始まりました。

土居神楽の役決め

神楽最初の会合では土居の公民館でどの役をやるかを話し合います。

 

土居神楽とは

土居神楽の歴史

現在、神楽は嘉年の中でも土居という集落でのみ受け継がれています。てっきり昔からそうなのかと思っていましたが、第二次世界大戦以前には各集落で舞われていたとのことで、15歳位になると男性は青年団に入り必ず舞うということだったようです。

土居神楽・恵比寿の仮面

土居神楽・恵比寿の仮面

戦時で生活物資がすくなると数少ないレクリエーションとして、そして戦争に行く兵士の無事安全を祈願するものとして神楽は隆盛をきわめました。しかし兵役によって神楽の舞手が少なくなり、各集落が神楽を維持できなくなりました。土居は比較的団員の多い集落で、多い年には1年に5、6ヶ所も衣装を荷車に積み舞い歩いたそうです。

しかしながら戦況が悪くなるにつれ、出征する若者がおおくなり土居神楽の団員数も3名、そして飾りに使用する紙もなくなりついに土居神楽も昭和18年(1943年)に奉納が中止されます。昭和18年といえば、日本軍がガダルカナル島から撤退したり、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した年で「根こそぎ動員」体制がとられた激戦の年ですね。

土居神楽の復活

戦後、神楽も復活したのですが散発的に奉納される程度でした。しかし有志によって昭和48年に「土居神楽舞保存会」が発足し、昭和54年には少なくとも森山八幡宮での年一回の奉納が定着しました。この頃には神楽継承の方法として、小中学生による子供神楽も行われました。

現在必ず行われている「蛇舞」の蛇芸は(スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する場面)は、昭和59年に島根県浜田市の長浜社中の方から授かったものでそれまでは蛇が出るだけで今のようなダイナミックな動きはなかったそうです。

そのような変遷を経て、今日でも土居神楽舞が舞われています。

土居神楽の太鼓

 

土居神楽のルーツ

石見神楽は大きく分けて「六調子」と「八調子」に分かれますが、土居神楽は「八調子」の神楽です。六調子と八調子は八調子の方がテンポが早いもので、明治の神楽改正によって現在の主流になったと言われています。

実は戦前に嘉年で舞われていた神楽も六調子のものだったようで土居の水津昭典さんは『物語の里 嘉年』の中で

筆者が子供の頃、祖父が冬季、藁仕事の手休めに神楽の掛歌を歌い、火箸でたたいてきかせた太鼓の調子が変で、きっと下手なのだと思ったことだが、今思えばあれが地舞の調子だったのだろう。(中略)たぶん祖父達が舞っていたのが六調子でなかっただろうか。今では地舞については何の手掛かりもなく調べようもない。

と述懐されています。

現在の土居神楽は、島根県浜田市三隅町井野→島根県益田市金山町宇治→島根県益田市美都町仙道→島根県津和野町木毛→土居というルーツを持ち、70キロの距離を経て伝わってきたようです。

土居神楽の面

 

そのような歴史を持つ土居神楽に、ぽっと出の移住者(しかも東居坂集落在住)の僕なんかが出てもいいのかな…と思っていましたが、フレンドリーに迎えていただき練習に励んでいます。

土居神楽の役決め

役は30分程度で決まっていきました。

僕は『国受け』(国譲り・鹿島とも)という演目の大国主という役と、蛇舞の蛇の役を頂きました。

本当は練習の様子が書きたかったのですが、歴史を書くだけで長くなってしまったので続きはまた次回…。

 

 

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